はじめまして、マスです
大手IT企業で働く、48歳の会社員です。
妻と娘の3人で暮らしています。
本業では、マーケティングとプロダクト開発を担当しています。
平日は会社員、家に帰れば父親。自由に使える時間は、正直そんなに多くありません。
それでも、会社員を続けながら、副業でここまで積み上げてきました。
- Xのフォロワーは3.3万人超
- 副業の収入は、本業を超えるまでに
- 最大月収は300万円、累計の売上は1,000万円超
- ブログでは、ASPのマスターレベル(月50万円以上が条件)を達成
- 著名メディアへの掲載や、金融系の大手企業との企業案件、書籍への登場も
- オンライン講座とスクールで、同じ悩みを持つ会社員の方に伴走しています
副業の月収(最大月収300万円)の記録です。

ASPの「マスターレベル」に到達した時点の記録です。

X(旧Twitter)では、3.3万人超の方にフォローしていただいています。

こう並べると、すごい人に見えるかもしれません。
「マスさんは、もともとセンスがあったんでしょう?」と言われることもあります。
でも、僕自身はどうしてもそうは思えなくて。
振り返ると、僕の人生は失敗と遠回りの連続だったからです。
少し長くなりますが、その失敗の話から、順番に聞いてもらえたら嬉しいです。
20代:アメリカで起業して、すべてを失った
若い頃の僕は、「自分なら何でもできる」と根拠もなく信じ込んでいました。
「これからは英語だ、海外しかない」
そんな思いつきと勢いだけで、17歳でアメリカへ渡りました。
現地の大学に通っていたのは、ちょうどインターネットが一気に広がり始めた90年代後半です。
留学生はアルバイトができなかったので、ネットの掲示板で仕事を見つけ、現地の中小企業向けにオンラインマーケティングの手伝いを始めました。
これが、僕の最初の「副業」でした。
卒業後は現地の企業に就職し、独学で覚えたデザインで、ウェブ制作の仕事も受けるように。
時代の追い風もあって仕事は次々と舞い込み、やがて起業。起業コミュニティまで立ち上げて、「行動力がある」と持て囃されました。
完全に、調子に乗っていました。
でも、現実は甘くなかった。
クライアントが増えるほど、僕の時間はなくなっていく。僕が手を動かさなければ、売上は1円も立たない。休めば、収入が止まる。
「自由になりたくて起業したのに、なんでこんなに不自由なんだろう」
資金繰りはどんどん悪化し、約30社の取引先との契約をすべて手放しました。
30歳で事業を畳み、翌年、失意のまま日本に帰ってきました。
自分が手を止めたら、すべてが止まる。
その怖さを本当に思い知ったのは、全部を手放したあとでした。
30代:深夜11時45分のオフィス
31歳で、日本の「新社会人」として再スタート。
就活のルールも知らず、エージェントに勧められるまま入った会社は、絵に描いたようなブラック企業でした。
「夜8時に帰れたら早いよね」
そんな空気が当たり前のオフィスです。
目が覚めた瞬間に「今日も行かなきゃいけない」と思うだけで、布団から起き上がれない朝がありました。
電車でスマホを眺めても、何も頭に入ってこない。このまま終点まで乗り続けて、どこかへ消えてしまいたい。本気で、そう思っていました。
ある夜、一人で残業していて、ふと時計を見ると11時45分。終電ギリギリの時間でした。
窓の外の暗闇を見ていたら、どうしようもない虚しさが込み上げてきました。
「朝も走って会社に来て、帰りも走るのか」
「自分の人生、本当にこれでいいのか」
その瞬間、僕の中で何かがプツンと切れました。
ブラック企業は、半年で辞めました。
そこからは、転職の繰り返しです。
最初は、ただ逃げるための転職でした。
でも2回、3回と重ねるうちに、少しずつ考え方が変わっていきました。
「ただ会社を変えるだけじゃダメだ。自分の時間を確保できる環境を選ばないと」
後になって、本多静六さんの『私の財産告白』や、motoさんの『転職と副業のかけ算』を読んだとき、あのとき手探りで考えていたことの答え合わせができた気がしました。
その間に結婚し、娘が生まれました。
そしてようやく、副業に本気で向き合える会社にたどり着いたんです。
人生の主導権を、少しだけ取り戻せた。そんな手応えがありました。
「よし、今度こそ」
そう思っていました。
30代後半から:0円のブログと、100万円が消えた夜
意気込んで始めたブログは、書く前の設定だけで数ヶ月が過ぎていきました。
公開しても、アクセスはゼロ。開設しては放ったらかしにする、を何度も繰り返しました。
「ブログがダメならプログラミングだ」と、同僚と2年かけてアプリ開発に挑みましたが、世に出すことなく挫折。
(その同僚とは、今でも笑い話にしています)
やることなすこと、裏目に出る。典型的な「ノウハウコレクター」でした。
「いつになったら、うまくいくの?」という家族の視線に、自分への自信はどんどんしぼんでいきました。
それでも夜になると、妻と娘が眠ったあとに、そっとノートパソコンを開きました。
薄暗い部屋に、画面の光だけが白く浮かぶ。その横で、小さな寝息が聞こえていました。
画面に映っているのは、誰にも読まれていない書きかけの記事と、収益「0円」の管理画面。深夜1時まで粘っても、0円は0円のままでした。
ふと隣を見ると、眠っている娘の顔が、画面の光に照らされていました。
(この子は、こんな父親を持って、どう思うだろう)
目の奥から悔しさがじわじわとあふれ、そしてこぼれ落ちました。
それでも奥歯を噛んで、眠っている娘と妻に、声にならない言葉を贈りました。
「絶対に支えるから。もう少し頑張ってみるね」
そんな日々に、さらに追い打ちをかける出来事が起きます。
当時、金融機関で働いていた僕は、「次は投資かもしれない」と考えました。
「仮想通貨が熱いらしい」と思いつくと、何も考えずに飛びつき、あっという間に100万円を溶かしてしまいました。
妻に打ち明けたときのことは、今でもはっきり覚えています。
妻の顔に最初に浮かんだのは、怒りでした。でもその怒りは、ゆっくりと悲しみに変わっていきました。
責められるより、悲しまれるほうが、何倍も胸に刺さりました。
「もうダメかもしれない」
人生で初めて、本気でそう思いました。
そのどん底で、ある日の帰り道、「なんで僕は失敗し続けるんだろう」と自分に問いかけました。
出てきた答えは、拍子抜けするほど単純でした。
アメリカでの起業も、ブログも、投資も。僕は全部、自己流でやっていたんです。
「自己流は事故る」とよく言いますが、「自分ならできる」という変なプライドで、誰からも学ばずに突っ走っていた。
もう自己流はやめよう。素直に、謙虚に、うまくいっている人から学ぼう。
あの深夜1時の誓いを、ちゃんと果たすために。
それからお金のことを一から学び直し、40歳で、もう一度ブログに挑戦しました。
それでも、管理画面の数字は0円のまま。
最初にブログを始めてから、気づけば5年近くが経ち、二度目の挑戦も挫折しかけていました。
238円と、「途中の姿」への共感
うまくいっている人を観察していると、ある共通点に気づきました。
「ブログで成果を出している人は、みんなSNSで発信している」
正直、半信半疑でした。
SNSにはあまりいい印象がなかったし、「自分なんかに、発信することなんて何もない」と思っていたからです。
発信するなら、何者かになってから。見せていいのは、成功した結果だけ。本気でそう思い込んでいました。
それでも、ブログ記事を1本書くのに比べたら、140文字なら隙間時間で書ける。
そのくらいの軽い気持ちで、その日にやったことを、そのまま投稿していきました。
「今日はブログを1記事書きました」
「証券口座の開設で手こずっています」
すごい話でも、役に立つノウハウでもない。ただの、その日の僕の記録です。
ところが、そんな投稿に反応が返ってきたんです。
「頑張ってください!」
「私も同じです!」
一人で黙々とやっていた作業に、少しずつ仲間ができていく。
完璧な成功者じゃなくても、もがいている途中の姿にちゃんと心を寄せてくれる人がいる。そのことに、そっと背中を押してもらった気がしました。
そしてある日、ダメ元で、自分のブログ記事のリンクをX(当時のTwitter)に貼ってみました。
すると、スマホの管理画面に、見慣れない数字が出ていました。
「発生報酬:238円」
何年も、ずっと0円だった画面に、初めて数字が立ったんです。
缶コーヒー2本分。
でも僕にとっては、0が1になった瞬間でした。
稼げるほど、苦しくなった
そこから収益は少しずつ育ち、多い月には100万円を超えるようになりました。
傍から見れば、十分すぎる数字だったと思います。
ところが、稼げるようになるほど、消えないモヤモヤが出てきました。
少し手を緩めると、収益が露骨に落ちる。自分が動き続けないと、すべてが止まる。
しかも売っているのは、他人の商品です。広告が止まれば、それで終わり。
「あれ、これって結局、アメリカのときと同じじゃないか」
その頃の僕は、トレンドも追いかけていました。
「今これが流行っているから」と、発信の中身をちょこちょこ変えていたんです。
反応は増えても、来てくれた人は次の投稿にはもういない。
フォロワーが1万5千人を超えたあたりで、成長も収益も、ぴたりと止まりました。
トレンドで稼いだお金を見ても、どこか素直に喜べない。
そんな頃、本心とは違う発信で稼いでいる人を見かけました。誰かの役に立つためではなく、自分が稼ぐためだけの発信です。
その姿を見たとき、はっきり思ったんです。
「これじゃないな。もうやめよう」
寝ている間に売れたnoteと、「仕組み」の原型
そこで初めて、「自分の商品」を作ることにしました。
これまでのX運用の経験をまとめた、数千円の有料noteです。
リリースした翌朝。
スマホの画面に、同じ通知が並んでいました。
「noteが購入されました」
「noteが購入されました」
僕が眠っている間に、合計で10万円ほどが売れていたんです。
自分が作ったものが、自分のいないところで、誰かの役に立っている。
寝ぼけ眼が、一気に覚めました。
僕がずっと探していた「仕組み」の原型は、この朝にありました。
次は声でも届けたいと、音声配信を始めました。
最初は、誰も聴いてくれません。それでも毎日。どんなに疲れていても、風邪をひいた日も、夜0時を回っても配信を続けて、300日を超えました。
オフ会で「声ですぐ分かりました!」と話しかけてもらえたときは、続けてきてよかったと、胸がいっぱいになりました。
ただ、その頃の僕は、X、ブログ、note、音声を全部同時に回していて、夜の時間はどんどん埋まっていきました。
ある夜、ふと手が止まりました。
「あれ? これ、また忙しくなってない?」
そこで戦い方を変えました。
毎日の発信はAIの力も借りて半分は自動に任せ、浮いた時間で、これまでの経験と失敗をひとつの講座にまとめる。準備に1年ほどかけ、100万円以上を自己投資して作った講座です。
案内したときには、こんな言葉をたくさんいただきました。
「待ってました」
「まさに、自分に必要な講座だと思いました」
「これなら間違いないと思って入りました」
副業の収入は、本業を大きく超えるまでに育っていきました。
忘れられないのは、体調を崩して丸2日寝込んだときのことです。
PCも開かず、Xの投稿も完全にストップ。それでもその2日間、過去に作った教材が、誰かの役に立ち続けてくれていました。
僕が動けなくても、過去の僕が作ったものが、代わりに働いてくれる。
ベッドの中で、そのありがたみをしみじみ噛み締めました。
ただ、こうして数字が育っていく間も、僕にはずっと後回しにしていたことがありました。
父と過ごした誕生日
僕の父は、典型的な九州男児です。
20代の頃は、「おまえも、はよ結婚せんと一人前とは言えん」とよく言われていました。
親に言われると、反対のことをしたくなる。頑固な父とは、いつの間にか疎遠になっていました。
20代も30代も、僕はずっとこう言い続けていました。
「稼げるようになったら、親孝行しよう」
「余裕ができたら、ゆっくり会いに行こう」
仕事に追われて、連絡もろくに取らないまま、何年も経っていました。
副業を始めてからも、目的は「稼ぐため」でした。
でも数字は、達成した途端に「まだ足りない」に変わる。
仕事終わりにソファに座って、スマホをぼーっと眺める。今日も頑張った。成果も出ている。なのに、何かが足りない。
頑張ることに夢中で、誰のために頑張っているのかを、すっかり忘れていたんです。
そんな頃、父が久しぶりに上京してきました。
2日目は、ちょうど僕の誕生日でした。
父とカフェでランチをして、寄席をたっぷり味わって、締めくくりは父の長年の夢だった銀座のジャズバー。一緒に、生演奏を聴きました。
昔の東京の思い出を、父は無邪気に話してくれました。
僕はただ「うんうん」と聞いていただけなのに、胸がじんわり温かくなっていく。
自分の誕生日なのに、まるで父の誕生日みたいな一日でした(笑)
それでも、これ以上ない誕生日だと思いました。
父の顔を見ながら、ひとつの問いがスッと胸の奥に落ちてきました。
あと何回、こうして会えるんだろう。
そこでやっと、腑に落ちたんです。
僕は「稼ぎたい」のではなく、大切な人との時間を、自分で選べるようになりたかった。
「月〇万円」は、目標ではありませんでした。
父との誕生日を、少し贅沢に、ゆっくり過ごせる余裕。娘との時間を、思いっきり楽しむ自由。そのための手段だったんです。
余裕ができるのを待つより、先に大切な時間を確保して、その周りに仕組みを組む。
そうやって積み上げてきたから、父が上京した日を、丸ごと空けることができました。
20代、30代と後回しにし続けた親孝行。
人生の締め切りに、ギリギリ間に合った。
そう思った瞬間、気づけば涙腺がゆるんでいました。
帰り際、父がこう言いました。
「あ、そういえば……そうたい。誕生日やろ?おめでとう。」
最後の最後に、思い出したように。
さすが、九州男児です(笑)
今、大切にしていること
僕が仕組みづくりにこだわるのは、楽をしたいからではありません。
大切な人との時間を、これ以上「いつか」に回したくないからです。
目指しているのは、会社を辞めて一発逆転することではありません。
会社を続けるかどうかの選択肢は手元に残したまま、積み上がる収入を育てて、「自分で選べる時間」を増やしていく。家族との毎日を大事にしながら、お金と時間の両方に余裕をつくっていく。
僕はこれを「選択の自由」と呼んでいます。
発信の中でも、手放さずにいることがあります。
まず、うまくいかなかった日の話も、隠さずに出すこと。
本業で理不尽なことがあった日も、セールスレターを添削に出して真っ赤になって返ってきた日も、そのまま書いてきました。かっこよくない話のほうが、ずっと深く届く。書き続けてきて、そう感じています。
それから、言っていることとやっていることを、ずらさないこと。
「仕組みで資産形成する」という一本の軸だけは、流行りに合わせて動かさないと決めています。
そして、届いた声には、すべて目を通すこと。
「ちゃんと読んでくれている」という実感が、いちばんの信頼につながると思っています。
AIとの付き合い方も、遠回りして学びました。
講座のスライドをAIに任せたら、3分できれいな資料ができました。でも、そこには僕の実感が1ミリも入っていなかった。結局ほとんど捨てて、1本2時間ずつかけて作り直しました。
AIは、僕の代わりに汗をかいてはくれません。
だから今は、自分の経験や考えを先に渡して、AIを「相棒」として使っています。
とはいえ、偉そうなことは言えません。
今でも気を抜くと、副業のことが気になってスマホを触ってしまい、娘に「パパ、全然遊んでくれない〜」と言われてしまいます。
そのたびに、何のために仕組みを作っているのかを思い出しています。
それでも最近は、ふとした瞬間に「あ、これポストに書こう」とネタを探している自分がいます。
遠回りした経験も、悔しかった夜も、誰かに届く話に変わっていく。発信することが、今は楽しくて仕方ありません。
あの夜の娘へ、そしてあなたへ
あの深夜1時、薄暗い部屋で画面の光に照らされていた娘は、今年12歳になります。
あの夜のことを、娘はきっと知りません。
収益が0円のまま、父親が悔しさをこらえてキーボードを叩いていたことも。「絶対に支えるから」と、声にならない言葉を贈っていたことも。
でも今、家族との時間を自分で選べるようになったのは、間違いなく、あの夜があったからです。
あの頃の自分に一言かけるとしたら、
「あなたは、間違ってない」
それだけです。
そして今、このページを読んでくれているあなたへ。
もし今、「頑張っているのに報われない」と感じているなら。
「このままでいいのか」という気持ちを、誰にも言えずに抱えているなら。
その苦しさは、あなただけのものではありません。
僕も、同じところで立ち止まっていました。
辛かった経験こそ、いちばんの資産になる。僕は、自分の遠回りでそれを知りました。
あなたの遠回りも、悔しかった夜も、昔のあなたと同じ場所にいる誰かにとっては、何より欲しかった話かもしれません。
まずは会社員のまま、自分の経験を「働き続けてくれる資産」に変えていきませんか。
その最初の一歩を、隣で一緒に歩けたら嬉しいです。
次の一歩
僕がゼロから仕組みをつくるまでの道のりを、1冊の電子書籍にまとめました。
「Xコンテンツ資産化 戦略書」(全99ページ)を、無料でお届けしています。
ストーリー仕立てなので、通勤の電車の中でも少しずつ読み進められると思います。
略歴
| 年齢 | 出来事 |
|---|---|
| 0歳 | 福岡県福岡市に生まれる |
| 17歳 | 渡米 |
| 18歳 | アメリカの大学に入学 |
| 24歳 | 卒業・就職。在学中から副業でウェブの仕事 |
| 26歳 | アメリカで起業 |
| 30歳 | 起業に失敗し、どん底に |
| 31歳 | 帰国。ブラック企業に入社し、転職を重ねる |
| 36歳 | 結婚。娘が生まれる |
| 36〜37歳頃 | 副業ブログを始めるも、挫折 |
| 39歳 | 仮想通貨で100万円の損失 |
| 40歳 | お金の勉強を始め、ブログに再挑戦 |
| 42歳 | ブログ・プログラミングに挫折。再びどん底に |
| 43歳 | Xで発信を始める |
| 44歳 | 初めての収益(238円) |
| 45歳 | 副業の月収が100万円を超える |
| 47歳 | スクールを立ち上げる |